椿


 小説『暗い絵』を読んだのは40年以上も前なので、物語の時代をちょいと調べていたら、興味を引くものを見つけた
 8月から文末に俳句を付け足しているものの、俳句の知識は全く無いのだが、『暗い絵』の時代の京大では「京大俳句会」の活動が盛んで、季語に拘らず作風の自由と批判の自由を唱えて新興俳句の中心的存在となったと言う。
 日中戦争が激しくなると、俳句に詠む人も多くなり、軍部はこれを厭戦を助長するとみなしたのだろう? 昭和15年2月には京大俳句事件が起こり、治安維持法違反で15人が逮捕され、事件は更に京大外や地方に拡大して、昭和18年までの4年間に全国で44人が検挙されたが、多くは二十代、三十代の若者だったそうだ。
 元々、京大の俳句は三高俳句会の機関紙として、鈴鹿野風呂や日野草城を中心に昭和8年に創刊された『京鹿子』を中に活動していたが、『京鹿子』が鈴鹿野風呂の個人誌となっていったので、それに反発した平畑静塔・井上白文地・中村三山ら若手同人達によって『京大俳句』が創刊されたとか。

 俳句の歴史は専門家に譲るとして、我が地元の名を称する鈴鹿氏を調べてみると、代々が吉田神社の社家、吉田氏の家老みたいなものだそうな?
どうやら足利幕府政所執事、伊勢氏の流れを汲むらしいが、ネットで調べた範囲では不明だ。
暇に任せてポチポチ調べていこう。

 京大俳句会は、花鳥風月を詠んで形式に拘る年寄りの趣味としての俳句に飽き足らない、多くの若者達を引き寄せたそうだが、年寄りの仲間入りをした我が身には花鳥風月の自然しか相手にしてくれない(^_^)

 今日の百姓一句
我が門(かど)に 訪う影も無く 椿の実 

 我が家の入り口には白芯朴伴と桃色朴伴で目隠し垣を作っており、写真はそれを写したもの。
椿は生長が遅く、材質は緻密で硬い。比較的真直ぐに幹を伸ばして皮が薄いために、両端を切るだけで即棍棒が出来る(^_^)
伝説によると景行天皇ヤマトタケルの父)は熊襲征伐の折にこれで槌を作り土着勢力を攻めて血の海ならぬ田を作り、今も地名に残るとか。
 また、杖にもよく用いられて芭蕉もこれを使い、墓所の義仲寺には椿の杖が残る。